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映画で観るファッション文化論

ル・ディヴォース―パリに恋して以前見つけた興味深い記事を思い出して発掘。
cinemacafe.net | CELEBLOG:『ル・ディヴォース』的ファッション文化論

人々が持つファッション哲学というのは、たいていその国の文化に深く根ざしているものですが、この作品にも仏米の違いを感じさせるユニークなエピソードが取り入れられています。それは、ケイト・ハドソン演じるアメリカ娘が、ロマンス・グレーのフランス男に、愛人になって欲しいとの暗黙のプロポーズの印として、クロコダイルのケリーをもらうというエピソードにまつわるもの。日本円にして200万円近くするというこのバックを、素敵なロマンス・グレー(古い?)から贈られ、すっかり浮かれ気味のヤンキー娘。そりゃ誰だって悪い気はしないでしょうが、この申し出をうやうやしく受け、愛人になると決めたヤンキー娘は、以来、どこへ行くにも、誰と会うにも、何を着ていてもこのバックを持って行くのです。そしてついには、オペラを観に行くときにも! そこで、ロマンス・グレーが困惑気味にやんわりと、でもキツーイ一発をかますのです。
「そのバッグ気に入ったみたいだね。素敵なバッグだ。でも、どこにでも合うわけじゃないんだよ」

そう、どんなにイカすアイテムも時、場所、場合を考えて持たなければ、単なる野暮アイテムになってしまうということなわけです。

日本で言えばどんな高価な大島紬であっても公式な場(結婚式やらそういうところ)に着ていけないのと一緒。所詮紬は街着・普段着なのです。「高ければ格上」ということでない不文律があるのです。(高ければ「質がよいもの」ということは大いにあるけれど)
そんなこともあって若い子が(物凄く高い)ブランド品を持って闊歩する姿に違和感を感じます。服ならば「着せられてる」、バッグなら「持たされてる」感がしてしまう。本人たちは頑張って働いてお金ためて買った大切なものだろうけれど、その前に自分磨こうよ!と思ってしまう振る舞いに遭遇することもしばしば。いいモノ持ってるのに(着てるのに)せこいなーみたいな。
そんなアンチブランドみたいなこと言ってる私も憧れのブランドはあります。そこに限らずともそれなりのブランドってどこも独自の哲学があってかなりカッコイイ。でもだからこそやたらに持てないなぁとも思うわけで。持っても外でて歩いて恥ずかしくならない自分になれたら「どーよ!」って感じで持ちたい(着たい)と思ってます。いつになったら叶うのやら 😐

ちなみにこの映画、観よう観ようと思ってたのに(巨匠:ジェイムズ・アイヴォリー監督、ケイト・ハドソン、ナオミ・ワッツ主演)来週には終わってしまいそうなので、忘れずに行かないと!と思っております。

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